疏水百選〜伝え流れるる歴史の清流1170〜

忘れては成らぬこと...

【忘れては成らぬこと..】

 

 

 

柏原文書その1
 =大肝入大崎掃部左衛門照井堰大改修=
 慶安年間に長い大旱魃があり、稲は枯れ生活に困窮し年貢米も納められない程の苦しい生活が続いた時、平泉の大肝入大崎掃部左衛門はその窮地をみかね、時の藩主に訴え税を免じてもらい、地頭より御蔵米を借り照井堰改修工事の人夫賃として使い、このような悲惨を二度と繰り返さないための照井堰大改修工事に取り組んだのでした。
 改修工事は厳美町五串村不動脇(現在の笹辺良付近)より山目村寺前(現在の)までの区間であったが、不動脇付近の巖壁の掘削は非常に困難を極め殆ど進まなかったため、平泉の多方院弁円(俗称:善正法院)に祈祷をお願いしたところ、これが大きく多顕、やっとのことで難工事は完成をした。
 しかし、予想以上に費用は嵩み、さらに旱魃は数年も続いてので凶作となり、困っているところに御蔵米の返石要求が執拗に求められ、逐にこれはお上を欺いた独断的行為ととられ、その功績は讃えられながらも領主木村伊勢守の上聞に達し、天和元年7月23日平泉太田川渕に於いて大崎掃部左衛門夫妻とも御仕置、即ち死罪となり、全財産であった水田3町4反歩、畑3町8反歩も召し上げられた。
 しかし藩主も人間「彼の行為は罪には相違ないが身を挺して公共のために尽くした心情を汲み」没収財産を中尊寺に寄進し、もって掃部左衛門夫妻の永代供養を命じたのであった。のち例年旧7月24日、中尊寺の御施餓鬼会において生魚を供え供養が行われる儀はこれの起源と伝えられている。
 処刑のあったと云われる、現在の平泉町宿地内に遺徳を偲ぶように五輪塔があり、その跡を偲ばせている

 

 

柏原文書その2
 =平泉高舘の霜月田屋敷御百姓柏原清左衛門北堰開鑿完成万治元年より3〜4年要す=
 北照井堰完成までは、五串村・達谷村・平泉村・高舘村・中尊寺村の五邑は用水不足が激しく、不作の年が連綿と続き離村する者後を絶たずと云うほどであった。(近世日本農村経済史論より)そのため生活は困難を極め5人組帳前書きは着る物や嗜好品、米食の制限、身分等細かく規制されていた時代であった。その時柏原清左衛門は私財を投じ磐井川の水を笹辺良で照井堰から分水し、穴堰にて太田川に合水する計画を立て、現在の猿鼻隧道580間を開鑿したのであった。その中間には35間毎に斜坑を掘り、年々の泥上げ等の用心坑としたので計6箇所設置されている。その他に8箇所の隧道があり、その計はおよそ880間に及ぶと云う。太田川に合水された用水は下流髢石で日向堰に、さらに下萱で西風堰に分水されている。
 髢石で分水された日向堰は毛越寺の裏を流れ、中尊寺坂下より衣川に注ぐ。またもう一つの下萱より分水された西風堰は平泉村高田に達し上照井堰と合流する。
 さらに文久3年柏原清左衛門の後裔新十郎が私財を投じ五串穴堰48間の堀接を行う。同年秋、花館の穴堰が崩壊したので更に千葉半右衛門と共に私財を投じて44間の堀更を完工した。

 

 

 

 

 

照井堰の歴史 水系
実態 忘れてはならぬこと

 


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